レベッカ・ブラウンはアメリカの作家。ノンフィクション作家の永沢光雄は入院中、ブラウンと須賀敦子の本だけを病室へ持ち込んでいたという。ブラウンの代表作「体の贈り物」の感想は以前ブログに書きました。(→「支える人-1」「支える人-2」)
先々週、図書館の書架に並んでいたブラウンの本を3冊借りてきた。
「若かった日々」(マガジンハウス)/「犬たち」(マガジンハウス)/「かつらの合っていない女」(思潮社)
「若かった日々」
「若かった日々」は「体の贈り物」に連なる自伝的な作品。
幼児期からの家族との関係、学校でのエピソード、がんに罹患した母親の介護、離婚して家を出ていった父親との和解などが、独特な筆遣いで描かれている。
初めて海水浴をしたときの水の感触、プールで父親に水泳を教えてもらったこと、中学校の夏のキャンプで女の先輩にあこがれを抱いたこと、威圧的だった父親の再婚、その再婚相手へ父が虚栄心から嘘をついていたこと、自宅で姉と自分のパートナー(女性)とともに母を看取ったこと。
読み進めていると、不思議な既視感に襲われる。アメリカが舞台なのに、自分はその場所を知っていて、そこで起こったことを経験したような気になってくる。その場の明るさ、空気の重さ、惨めな思い、触れている人の体温まで、皮膚感覚で理解できる素晴らしい文章。きっとブラウンが普遍的なことがら、心情を描いているからだと思う。
この本は2004年10月発行。永沢が下咽頭がんの手術で入院していたのは2002年なので、自宅で読んでいたかもしれない。
タイトルで勘違い
初めて「若かった日々」というタイトルを見たとき、青春時代を追想する話かと思った。実際には誕生したときから両親を亡くすまでの半生が描かれており、原題は「若さの終わり」(あとがきに書かれている)なので、「若かった日々」では誤解を招かないだろうか。
実は以前から、ブラウンの翻訳本のタイトルって、何か変だなと思っていた。
「体の贈り物」は手塚治虫の漫画「どろろ」のように身体のパーツをやりとりする話かと思った(臓器移植とか)。「家庭の医学」は、それこそ先行して有名な本があるのになぜ同じタイトルなんだろう。
これじゃあ読者に予断を与えるんじゃないだろうか。原題に忠実なだけかもしれないけど、安易すぎないか、別に意図があるのか、日本で出ているブラウンの全著作を翻訳している柴田元幸氏に聞いてみたいような気がしておりました。
「冒険」と「冒けん」
と思っていたら、先週3月15日の中日新聞夕刊の文化欄に、「その訳に異議あり」というコラムが載った。柴田氏がマーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒けん」(研究社)を新しく訳したが、12歳の無知な少年の話し言葉という設定のため原文にはスペルミスが多く、日本の子供だったら「冒険」という漢字は書けないはずなので、タイトルを「冒険」ではなく「冒けん」としたそうだ。
コラムの執筆者はそれは偏見ではないかと異を唱える。
「利発な子供は大人に馬鹿にされないよう、あえて背伸びをして「冒険」と書く。/翻訳とは暴力だ。どんなに理屈を並べても、原文を強引に自分の解釈でねじ伏せることなのだ。」
我が意を得たり、でした。
翻訳というフィルター
私のように原文を読めない以上、翻訳に頼るしかない。翻訳者はどれだけ黒子に徹しても、その人の考え方や人間性などがフィルターとなって、原文は少なからず色が付いて濾過される。読者はそれを承知の上で翻訳文を受け取るのだけど、読者に作為を感じさせたらいけないと思うのだ。
ブラウンの本で言えば、このタイトル、紛らわしくて損してるんじゃない? ということですが(「ハックルベリー・フィン」は新訳のため、柴田氏は従来の翻訳と差別化を図りたかったのかもしれませんが)。
ほかの2冊だけど、「かつらの・・・」はナンシー・キーファーという画家の絵にブラウンが文章を付けた作品。散文のようでとりとめがない。「犬たち」も抽象的な内容で、私にとっては読み進めるのに忍耐が必要で、途中で投げ出しました。「体の贈り物」のような内容、味わいを期待していると落胆すると思います。
2018年3月21日(水曜)
〇体重 50.5 〇BMI 19.1 〇体脂肪率 26.8
■朝
豆乳、野菜ジュース
■お昼
ちゃんぽん(玉ネギ、人参、シイタケ、ピーマン、ブロッコリー、厚揚げ、かまぼこ、イカ)、サラダ(セロリ、パプリカ、ちりめん。岩塩、黒胡椒、オリーブオイル)
■お八つ
ココア、クラッカー
■夕飯
ご飯(雑穀入り100グラム)、アサリの味噌汁(ネギ)、舌平目のムニエル(シイタケ)、根菜の煮物(ゴボウ、レンコン、人参、コンニャク、ちくわ、練り物、昆布)、ほうれん草のおひたし(削り節)