ニワトリ
5歳くらいのころ、ニワトリを絞めるのを見たことがある。首を落として逆さに吊るし、羽をむしってツブツブの肌があらわになる。地面には赤い血だまり。私はまんじりともせず見ていたそうだ。
以来、肉がだめになった。小学校の給食は今と違って完食するまで席を立たせてもらえなかったので、シチューの肉は飲み込んだ。肉は丸呑みするものだった。高校になって弁当持参となり、苦痛から解放された。
学生、社会人となって、自分でメニューを選べることが嬉しかった。しかし外食はたいてい一人ではない。
大人の偏食は連れに迷惑をかける。まず行ける店が限られる。シェアできるメニューも多くない。旅行の場合は予約時に肉がダメだとことわりを入れる。コース料理のメインが肉なら魚に変更してもらう(可能な店ならば)。
でもそんな変更が利かない場合もある。ああ、私は宮中晩餐会に招待されても参加できないわ。モンゴルのゲルに招かれて羊を屠ってもらっても断らねばならないのね。かように肉を食べられないというのは不便だ。
私の肉嫌いを知っている友人は、自分の披露宴会場のレストランに相談してくれ、私だけコースのメインが魚、魚と続いたことがある。その心遣いは本当に嬉しかった。
可哀相で気持ち悪い
なぜ肉がダメか。
動物が可哀相だから。そして気持ち悪いから。この二つに尽きる。
どうして犬や猫がダメで、豚はいいのか。家畜だから?(狩猟については話が逸れるのでここでは触れない)
全身脂ぎった肥満体の輩が「肉が大好き」などとにんまりすると、「ご自分のハムのような腿でもかじったら?」と心の中でつぶやくのが長い間の習慣だ(我ながら嫌みったらしいこと!)。肉好きと公言できる人は鈍感に思えてしまう(偏見です。不愉快になられたらごめんなさい)。
確か高島俊男(中国文学者、エッセイスト)の随筆にあったと思うが、白人の可憐な少女が血の滴るようなレアのステーキにかぶりついているのに奇異なものを感じ、動物が可哀相だと思わないかと聞いたところ、
「牛や豚は神様が人間に食べ物として与えてくださった」という返事が返ってきたそうだ。
キリスト教徒にとって家畜は食料、人が生きる糧であり、それ以上でもそれ以下のものでもない。そうか、最初からそう刷り込まれていたら、動物に下手な感情移入をすることもなかったろうに。
ヒトに近いほ乳類は殺されるとき恐怖を感じると聞いたことがあるが、私はステーキの向こうに動物の恐怖、苦痛を感じてしまうのだ。我ながらやっかいです。
肉を食べないと不健康に?
とはいえ以前は(肉の比率の少ない)ハンバーグや餃子、ベーコン、生ハムくらいは食べていた。でも自炊が増えてからは、肉を全く買わなくなった。
ベジタリアンでもビーガンでもないので、卵や魚は食べる。レトルト食品などにひき肉が入っているのに気付かず食べていることもあると思う。ラーメンのチャーシューだって食べている。今は魚肉ソーセージだけど、以前は肉のウインナーも食べていた。ただ粗挽きはダメだったけど。
以前は、大人になれば肉を食べられるようになるかもと思っていたが、50年間変わらなかったので、おそらくこれから先も宗旨替えすることはないでしょう。
80を過ぎた高齢者の健康の秘訣は「毎日肉を食べること」などと聞く。がんの再発、転移から生き延びられたとしても、私には不健康な老後しか待っていないのかとがっくりする。
トラウマ
昨年読んだ里見清一著「医師の一分」(新潮新書)にこんな記述があった。
「私のがんセンター時代の指導医は、若い頃に鶏が絞め殺されるのを目撃して『トラウマ』になり、以来鶏を一切食べられない。」
おお、私と一緒だわと大いに共感したが、昭和40年頃までは、田舎の庭先でニワトリを絞める風景はそれほど珍しくなかったと思う(今だったら動物虐待と言われそうだが)。
ただ子供には残酷で強烈、衝撃的な光景だった。トラウマはその後の人生に長きにわたって影響を与え続けるというセオリーを、身をもって体現することになってしまった。
というわけで、私はがんになったため肉食をやめたわけではありません。年季の入った肉嫌いなのであります。
2018年4月15日(日曜)
〇体重 50.5 〇BMI 19.1 〇体脂肪率 27.4
■朝
豆乳、野菜ジュース
■お昼
うどん(乾麺80グラム。干しシイタケ、ワカメ、ネギ、かまぼこ)、シイタケとちりめんのアヒージョ(ニンニクオイル)、野菜の甘酢漬け(キュウリ、セロリ、パプリカ)、厚揚げ(甘味噌)
■お八つ
コーヒー、飴、クラッカー
■夕飯
雑穀入りご飯(100グラム)、フカヒレスープ(マイタケ、ニラ、卵)、塩ザケ、根菜の煮物(ゴボウ、レンコン、人参、コンニャク、練り物、昆布。ゆで卵)、ゆで小豆(セロリの葉)、海苔